母さんが弟を連れて家を出ていったのは俺が小学六年生の時。
 親父はその頃から荒れるようになって、元々多かった酒の量が更に増えた。
 酔っ払って母さんの事を言いながら俺を殴ってくる親父が嫌で、中学生になった頃には親父が帰ってくる前に家を出る事が習慣になった。
 トラックの長距離運転をしている親父は明け方帰ってくる事もあるし、夜に帰ってくる事もあった。
 予測がつかないから学校から帰ったら家にある金を少し持ち出してすぐ家を出てコンビニとかで夕飯を食べていた。
 学校にも馴染めずサボるようになって、同じように学校に行っていない友達とつるんで町で遊んでいた。
 そうやって外を逃げ場所にしている時に出会ったのが、『左之さん』だった。
 
 
 

家族ごっこ 番外編

 修と左之


 
 
 
「修ー、これからどうする? カラオケ行く?」
 サラリーマンらしきスーツの集団がちらほらと見える時間帯、コンビニで買った飴をガリガリと噛みながら宵太が聞いてきた。
 宵太は、学校は違うものの俺と同じ学校に行っていない仲間だ。大体このコンビニ周辺にいるらしく、昼間も夜も近くをうろついている俺と年も近い事から何時の間にかつるむようになった。
「もうあんまり金ないからなぁ。あっち行こうか」
 俺は首を振ってから公園の方へ足を向けた。
 近くの公園にはベンチがあるから座る事も出来るし、トンネル遊具もあるので雨が降っても大丈夫なのだ。
 雑談しながら宵太と歩いていると、微かに怒声が聞こえた。
 首を巡らせれば数人の男が一人の男の腕や襟首を掴んで路地裏に引きずり込むところだった。
 宵太をちらりと見ると、彼も気付いたようで顔を顰めてみせる。
「うへ、また喧嘩だ。巻き込まれない内に行こうぜ」
「うん……」
 俺は頷いたもののまた路地裏の方へ目を向ける。
 この辺りはあまり治安が良いとも言えず、飲み屋も多いため夜になると酔っ払いが増えた。そこかしこで喧嘩を見掛ける事も珍しくない。
 それでも俺は、先程ちらりと見た男が気になった。どうも大人ではなかった気がしたからだ。
 もしかしたら俺とそんなに年が変わらないかもしれない。そう思うと心が痛んだ。
 知らず知らずの内に足が止まっていたようで、後ろから歩いてきたホストみたいな男にぶつかられ舌打ちをされる。
 邪魔、という言葉に首を竦めて道の端に寄ると先を歩いていた宵太が走って戻ってきた。
「どした?」
 行かないのか、と聞いてくる宵太に俺はさっきの路地裏を指し示す。
「ちょっと覗いてみない?」
「ええ!」
 驚いて首を横に振る宵太に両手を合わせる。
「ちょっとだけ。だって連れてかれた人、俺らとそんな年変わんなかったぜ。やばそうなら警察とか呼んでさ」
「えー、やめようぜ……絶対やな事になるって」
 渋ってぶちぶちという宵太を置いて、俺は路地裏の方へと向かった。宵太も何だかんだと呟きながら後ろをついてくる。
 狭いビルとビルの間を、壁からそーっと覗き込むと、此方に向けられる背中が見えた。
 立ち尽くすその人の足元に視線を下ろすと、三人男が倒れている。
「え……」
 思わず声を出した俺に気付いたのかその人が振り返った。
 暗い路地で、彼の目が光ったように、錯覚した。
 彼は何も言わず親指で口元の血を拭い、そのまま歩いて行ってしまった。
 遠ざかる背中を呆然と眺めていると、宵太がやっと口を開いた。
「すげぇ。あの人、一人でやっつけたのかな」
 そう言った途端、地面に倒れていた男達が呻いた。
 飛び上がるようにして俺達はその場を離れ、当初の目的であった公園へと急いだ。
 
 
 
 その翌日の事。
 俺は駅で見付けた宵太を誘ってコンビニに向かっていた。
 その駅は結構大きくて、傍に広場もある。訳の分からないでかいオブジェの周りにへんてこな石が沢山埋めてあって、よく待ち合わせ場所なんかで使われるところだ。
 其処を突っ切っていこうとして、俺と宵太は足を止めた。
 丸い石の上に座ってぼんやりとしている男に目がいってしまったからだ。
「うわ、すげぇ怪我」
 宵太が顔を顰めて呟く。
 腫れあがった頬と口に絆創膏とガーゼを貼っているその人は、石の上に片足を上げて膝に頬杖をつきながら何をするでもなくその場にいた。
 夕闇が迫る中でひたすら夜よりも黒い髪だけが元気につんつんと上向いている。
 それを見て俺はハッとした。
「な、あれって昨日の人じゃないか?」
「え? あ、そうだ。よく分かったなお前」
 耳打ちすると、宵太は驚いたように目を丸くした。
 やっぱり間違いない。
 確証を得て俺は何だかドキドキしてきた。
「行こうぜ、怖いし」
 一方宵太は全然そんな事はないようで俺の袖を引っ張ってくる。
 俺は生返事をしながらあの人を見詰めていた。
 本当に三人倒したのだろうか。
 こうして明るいところで見てみても、やはり顔が大学生という感じはしない。しかし背は高そうだし、高校生かもしれない。
「あ、修!」
 宵太の焦った声が聞こえたが、俺は自然とその人に歩み寄っていた。
 僅か数歩間を開けたところで立ち止まると、彼の人が顔を上げて俺を見た。
「何だお前」
 素っ気ない声は、少し刺々しい。鳶色の瞳がくるりと動いて俺を映した。
「あ、あの……昨日、喧嘩、してましたよね?」
 声を出す頃には動悸が最高潮で思わず声が震えてしまった。彼はそれをどう思ったのかただ眉を顰めるだけで答えない。
「三人共、一人でやっつけたんですか?」
「だったら何でぇ。あっちに行け」
 何でもない事のように肯定した彼はそう言って俺から顔を逸らした。
「……すごい」
 拳を握って呟く俺の肩を、恐る恐る近寄ってきた宵太が叩く。
「おい、修」
 宵太を振り返って俺は興奮気味に告げた。
「やっぱりそうだって。三対一で勝ったって!」
「おい修、やめようぜ……」
 こんな凄い事なのに怯えた反応を止めようとしない宵太から彼の人に視線を戻し、俺は身を乗り出すようにして話し掛けた。
「あの、俺……修って言います。お兄さんは」
「るっせぇな。懐くな」
 不機嫌そうに吐き捨てられた彼の言葉に、きゅるるという可愛らしい音が被る。
「……」
 気まずそうに俯いた彼は自らのお腹を押さえた。
「あ、こ、此処で待って、待っててください!」
 飛び上がって踵を返した俺は、急いで彼を其処に留めるよう幾度か手を振ってからコンビニへと走った。
 レジに並んでいる列を横目におでんが煮込まれているケースの前に立ち、プラスチックの容器を片手に持った。
 備え付けのお玉を構えて汁の中に沈んでいる具を真剣に睨む。
 あの人はどの具が好きだろうか。
 結局考えても分からないので、定番の大根と卵とちくわを容器に掬った。
「修ー、どうしたんだよ」
 汁を追加しているところで宵太が追い付いてきて俺の横で肩を弾ませる。
 俺はおでんの容器から目を外して宵太を振り返った。
「だってすげーじゃんあの人。三人に勝ったんだぜ!」
 声が弾んでいるのが分かる。俺とそう年も変わらなそうだというのに備わっている圧倒的な強さに俺は惹かれないでいられなかった。
 宵太はそんな俺を不安そうに見て、口を尖らせながら手元に視線を落とす。
「でも怖そうだし……早く公園行こうぜ」
「先行っといて」
 そう答えておでんの蓋を閉めてから列の最後尾に並ぶと、宵太が不満げな声を上げながら俺の後ろに並んだ。
 結局宵太は一人で公園へ向かう事もなく、あの人のところへ戻る俺の後ろを渋々といった顔で着いて来た。
 まだあの人はあそこにいるだろうか。
 気が急って早足になるが、おでんが零れてしまうため走れない。
 ほとんど競歩になりながら広場に戻ると、果たしてあの人はさっきと同じ姿勢で其処にいた。
 俺はホッとして彼の前に戻り、おでんを差し出す。
「あの、どうぞ」
 不審そうな視線を向けてくる彼の手に半ば無理矢理容器を押し付けて、俺は彼の隣にある石に腰を下ろした。宵太は、どうして良いかと迷うように辺りを見回して、結局俺の隣に立った。
「昨日見掛けたんですけど、すみません……怖くて何も出来なくて。でもすごいっすね! 勝つなんて。どうやったら強くなれるんですか?」
 興奮をそのままに伝えるも彼は全く此方を見る事もなく、一緒に渡した割箸を割っておでんを食べ始めた。
 大きく開けられた口に次々と卵や大根が運び込まれ、予想より早くそれらは彼の胃へと片付けられてしまう。
 はふ、と小さく息をついた彼はプラスチックの器に口を付け、それを傾けさせながら首を反らせた。こくりと喉ぼとけが幾度か動く。それを眺めていると、不意に空になった器を突き出された。
「ん」
 短い彼の声に応えて俺は容器を受け取る。辺りにゴミ箱がないか見回していると、彼は立ち上がって何処かへ行ってしまった。
「あ、待ってください!」
 俺も急いで彼の背を追い掛ける。今日偶然に会えたからって明日も会えるとは限らない。どうしても今日、彼と自分を繋いでおきたかった。
「何処に行くんですか?」
 コンビニの前に並べてあるゴミ箱に容器を捨て、彼の脇に並んで顔を見上げながら問い掛けるも何も答えてもらえない。
 ちらりと後ろを見ると宵太も必死で追いかけてきていた。
 彼の背は俺よりも高く、歩幅も大きい。俺を撒こうとしているのか普通なのかは分からないが、ついていくには小走りにならざるを得なかった。
 駅を抜けて裏通りへと進み、小さなゲーセンの前で彼は足を止めた。
 見上げるとメーカー名のネオンが一部取れた状態の看板が見える。店の中はぎっしりとゲーム台が入っていて、そこそこ人が詰めていた。
「こんなとこにゲーセンあったんだ」
 宵太が呟いて俺の横に立つ。
 俺と宵太もゲーセンには行くけれど、駅前の大きくて明るい方へしか行った事がなかった。
 この町は駅前と駅裏と少し相が違っていて、こっち側は所謂ヤンキーみたいな人が多くて怖いからだ。
 足元を見ると煙草の吸殻や空き缶が転がっていて、店内の床も少し汚い。
 俺と宵太が躊躇している事に全く構わず彼は自動ドアを潜っていってしまい、こんなところに置いていかれてなるものかと慌てて彼を追い掛けた。
「おー、左之。来た来た」
 店内に入ると奥の方から直ぐに声がかかった。
 見れば、ゲーム台の前に数人集まっていて此方に手を振っている。
 彼は迷わず其方に足を向けて集団に近寄っていった。
「左之、さん」
 名前を聞き逃さずインプットした俺は、顔を輝かせながら彼についていく。
「何だ後ろの二人」
 集団の内の一人が左之さんの後ろにいる俺達を覗き込むように身体を傾がせた。
「知らねぇ」
 素っ気なく答えた左之さんは、椅子に座る一人の足を軽く蹴った。
「退け」
「俺がやってんだっつぅの!」
 蹴られた男は文句を言いながらも席を立ち、左之さんが代わりに椅子に座る。
 画面を覗き込んでみると、麻雀牌が沢山並んでいた。勝っているのか負けているのか俺には分からない。
「あの、左之さん!」
 覚えたての彼の名前を叫び、俺は左之さんに向かって頭を下げた。
「俺を左之さんの舎弟にしてください!」
「舎弟!?」
 周りの人達がどよめく声が聞こえる。少し恥ずかしい気持ちがしたが、後悔は無い。
「舎弟って何だよ左之ー」
 そっと窺うように顔を上げると、友達らしき人が左之さんの肩に腕を乗せているのが見えた。
 左之さんの返事は無い。真剣な表情で画面を見詰め、ボタンを押している。
「舎弟の上って何?」
「師匠?」
「それ弟子じゃね?」
「親分?」
 左之さん以外の人達が面白がっている様子で話している。その内俺の肩に手が置かれ、俺は頭を上げた。
「なあ、あんたらさ、名前なんてーの?」
 左之さんと同い年くらいに見える彼のにこやかな顔に少し安心して俺は口を開いた。
「修です」
 遅れて宵太が口の中でもごもごと「宵太」と呟く。
「俺ら大体ここに溜まってっから、また来いよ」
「はい!」
 左之さんは何も言わないものの、その仲間に受け入れられたという事実は俺を浮かれさせた。
 左之さんだってアレ以上拒絶の言葉は言ってこないので、きっと許してくれているのだと思う。少し図々しいかもと思ったが、周りを見る限り左之さんが何も言わなくてもお友達は気にしていないようなので、俺の認識は合っているのだろう。
 
 それから俺と宵太は、こっちのゲーセンに行くようになった。
 左之さんは来たり来なかったりだけど、ゲーセンにいない日は広場なんかで姿を見掛けたので、コンビニで何か買って差し入れた。
 少しずつ左之さんも俺と話してくれるようになって、広場で会話しているとゲーセンの皆も広場の方に集まってくる事もあった。
 恐らく皆左之さんの事が好きなんだろう。
 俺はそんな左之さんの隣にいれる事を、随分と誇らしく感じるようになった。
 
 
「えー、お前あそこの中学行ってんの? おぼっちゃん校じゃん」
「えへへ」
 すっかり馴染んだ宵太が、照れたように頭を掻いている。
「修は?」
 相変わらず広場の石に腰を下ろしておでんを食べている左之さんを地面に座りながら見上げていた俺は、急に話を振られて瞬いた。やや遅れて自校の名前を告げると小さく口笛が聞こえる。
「あそこ最近荒れてねぇ?」
「なー、俺らがいた頃はマシだったのに」
 肘で小突き合いながらふざけて笑う彼らに俺は目を丸くした。
「え? 先輩だったんですか?」
「おう、敬え敬え」
 からかうように頭を撫でられ、俺は思わず笑いを洩らす。そうしてから左之さんを見上げた。
「左之さんは……左之さんは、高校生ですよね? 何処の……」
 そう聞いてみるが左之さんは答えない。大根を咀嚼するのに忙しいのかもしれない。
 とん、と肘で突かれ横を見ると、嘗て同校の先輩だったらしい人が俺を見ていた。
「駄目だって、左之こういう時何も言わねぇんだ」
「おい左之ー、舎弟に学校くらい教えてやれよ!」
「舎弟! あはははは!」
 舎弟のワードに反応して全員が笑う。
 やはり早まったかなと恥ずかしさが襲ってきて俺は頭を掻いた。舎弟というのは事あるごとにネタにされてこうして笑われてしまう。
「そいやさー、クラブ行った事ある? お前ら」
 笑いも収まった頃、缶ジュースを飲みながら先輩が俺と宵太を見た。
「クラブ、ですか」
「そうそう。俺ら時々行くんだけど、左之も行くだろ?」
「んー」
 聞かれた左之さんは生返事をしたっきりだ。
 それでも立ち上がった先輩達に腕を引かれると左之さんも立ち上がったので、俺も急いで腰を上げた。
 左之さんが行くのならお供しなくては。
 
 俺達は6人の集団で移動した。
 いつものゲーセンを通り過ぎ、飲み屋街を歩く。
 クラブ、って。
 そう考えながら俺はビルの上を見上げた。
 縦に長いビルに光る看板が飾られている。
 その内の一つに「クラブ由美」と流れるような文字が書かれている看板があった。
 想像ではあるけれど、恐らくクラブに入れば綺麗なママと呼ばれる人が出てきて、お酒を注いでくれるのだろう。
 未成年だからと追い出されたりしないのだろうか。
 緊張でドキドキする胸を押さえていると、先頭にいる先輩達は「こっち」と俺に声をかけて地下への階段を降りていった。
 置いていかれたくなくて小走りにその後を追い掛けると、ちょうど突き当たりにある分厚い扉が開かれるところだった。
 扉が開いた瞬間、音と光の洪水が洩れてくる。
 様々な色のライトが床や壁を縦横無尽に走り回る中、楽し気な音楽が店の中を満たしていた。
 音楽に合わせて踊っている人達の間を擦り抜け、椅子もない高めのテーブルの傍に俺達は落ち着いた。
 暫くすると先輩が皆の飲み物を纏めて買ってきてくれたようで、グラスが人数分テーブルに置かれた。
 勿論奢りではないようで、800円を徴収されたけど。
 水滴がついている透明のグラスを見詰めながら俺はぼろい財布から800円を取り出した。缶ジュースより少なそうなのに、これで800円もかかるなんて信じられない。別に先輩を疑っている訳ではないけれど。
 グラスに突っ込まれているストローに口をつけて中身を吸ってみると、甘いオレンジジュースの味がした。
 ふと隣を見れば左之さんもグラスを持って飲んでいる。その中身が青色をしていたもので俺は凄く気になって左之さんに聞いた。
「何飲んでるんですか?」
 一回目は周りの音楽に掻き消されて聞こえなかったようなので、左之さんの袖を引いて少し大きめの声で同じ質問をすると、「飲んでみるか?」とグラスを渡された。
 綺麗な青色のジュースは、底の部分だけ宝石のような緑色で、魔法の飲み物のように見えた。ワクワクしながらグラスに口を付けて中身を口に入れると、途端にむわっと炭酸とアルコールの香りが鼻に押し寄せ俺は思わず横を向いて中身を吐き捨ててしまった。
「ぶえっ! さ、酒じゃないですか!」
 咳き込んだ所為で涙が滲んだ視線を左之さんに向けると、左之さんは微かに笑って俺からグラスを取り返した。
 何でもないように青い酒を飲む左之さんの横顔を、俺は呆然と見上げた。一瞬見えた笑みは直ぐに消えて、痣の残る頬や口元を赤や黄色の光が撫でる。
 初めて見た左之さんの笑顔は、俺の心を掴んで放さなくなってしまった。
 ただただ強い人だと憧れてきたけど、左之さんは綺麗な顔をしている、と俺はここに来てやっと気付いた。
 気持ち悪いと思われるかもしれないが、一瞬見た笑顔が忘れられなくなった俺は強くそう思ってしまった。
 今は痛々しい喧嘩の跡が残っているけど、それが消えたら……。
 決して左之さんは女の子みたいな顔、という訳じゃない。
 どっちかというと、格好良い、のだと思う。
 それでも普段見せている刺すようなオーラと、先程見た緩んだような笑顔のギャップに、俺はやられてしまったのかもしれない。
 
 ぼんやりとしていると先輩に肩を組まれた。
「おい、修、ナンパ行こうぜ! 上手くいけば年上のお姉さんとお近付きになれるぞぉ」
 首を絞めるように手を回して俺の頭を掻き回してくる先輩の、酒臭い息に閉口して俺は「え?」と聞き返すのが精一杯だった。
「ちょっとついてこいよ。横にいるだけで良いからさぁ」
「いや、えっと、俺は……」
 何とか腕から抜け出して後ろを振り返ると、其処にいた筈の左之さんは姿を消していた。
「あれ?」
 飲み干されたグラスだけが外側に水滴を纏わせて残っている。
 俺は急いで辺りを見回して左之さんを探した。
 腕を振り回している人や腰を揺らしている人達の間を抜け、店を回ってトイレも覗いたけど、左之さんの姿は見えない。
 もしや帰ってしまったのだろうかと店の外に出てみると、涼しい風と店内よりは静かな空気が顔に当たって俺はホッと息を吐いた。
 ゲーセンの騒がしさは楽しいけど、こういう店の騒がしさは何だか慣れない。左之さんが隣にいればまだ良いけど、いなくなった途端に密閉された空間なのだと意識してしまった。
 夜の空気を思い切り吸い込んで階段を登り、左之さんの姿が見えないかとキョロキョロとしているとすぐ傍で怒鳴り声が聞こえてきて俺は咄嗟に肩を竦めた。
 クラブに続く地下への階段と、その隣の居酒屋が多数入っているビルとの間に人二人分の隙間がある事に気付いて、俺は其処を覗いてみた。
 壁沿いに積まれたビールケースや段ボールの向こうに、左之さんと男二人が向かい合って立っているのが見えた。
 左之さんを発見した嬉しさと、既視感を覚えるような光景に身体が震える。
「謝れっつってんだろ。人にぶつかっといて何も言わねぇってどういう神経してんだ、ああ!?」
 バンダナを頭に巻いたスキンヘッドらしき男が左之さんに向かって凄むも左之さんは、くあと欠伸をしただけだった。
 店の人を呼んできた方が良いのか、それとも先輩達に報せるか。
 俺が迷っている間に、もう一人の少し背が低い男が拳を振り上げた。
「ナメやがってガキが!」
 左之さんは自分に向かってきたその拳をひょいと避け、男の額に手をあてて前髪を掴みながらその頭を後ろの壁に思い切り叩き付けた。
 スキンヘッドの男が何か言う間もなく続けざまにガンガンと幾度も打ち付け、やがて背が低い方の男は膝を打ってその場に倒れ動かなくなった。
「ひ……」
 悲鳴が洩れそうになって俺は慌てて自分の口を覆った。
「ぶ、ぶっ殺す!」
 スキンヘッドの男がそう叫んでナイフを取り出す。
 左之さんは片手をズボンのポケットに突っ込んで男を見た。
 無言で男を見返す左之さんの瞳が、薄暗い路地なのにぎらぎらと猫のように光る。
「どうした。殺すんだろ? 来いよ」
 そう言って男の方に一歩左之さんが踏み出すと、男は舌打ちをして此方に向かって走ってきた。
 一瞬恐怖に身が竦む俺を、しかし男は酷く突き飛ばしてそのまま走り去った。
 尻餅をついて男を見送っていると、何時の間にか左之さんが俺の近くまで来ていた。反射的に身体を固くする俺に何も言わず、左之さんはそのまま歩いていってしまう。
「さ……左之さん……」
 声が喉に張り付いて上手く呼べなかったが、それでも俺は何とか立ち上がってよろけながら彼を追った。
「お前もう帰れ」
 追い付いたところで左之さんがぴしゃりと突き放すように言う。
 俺は思わず足を止めて、言った。
「帰らなきゃ……駄目ですか」
 まるで泣き出す前兆のように声が震えた。
 左之さんも足を止め、俺を振り返る。初めて左之さんが俺に真っ直ぐ視線を向けてくれた気がしたけど、嬉しさより寂しさと辛さが勝って俺は俯いた。
「帰ったって……俺……」
 そこから先が言葉にならない。ぎゅう、と拳を握っていると「修」と左之さんの声が俺を呼んだ。
 俺は驚いて顔を上げる。
「覚えてくれたんですか、俺の名前」
「何でぇそりゃ」
 クッと口の端で笑った左之さんは、明るい夜の光の中で怖いくらい綺麗に見えた。
「送ってやろうか」
「えっ」
 まさかの申し出に飛び上がるも、左之さんがまた歩みを再開させたので俺は急いで彼の隣に並び家への道を教えた。
 
「俺、父親しかいないんです」
「……ふーん」
「親父もう帰ってるかも」
 団地に入り、自分の家がある棟で立ち止まって俺は窓を見上げた。
「帰ってちゃ駄目なのかよ」
「……」
 左之さんに答える事は出来ず、明かりが点いている事を確認した俺は少し肩を落として階段を上る。
 家の扉の前で俺は左之さんを振り返って頭を掻いた。
「すみません、本当に送ってもらっちゃって、へへ」
 左之さんはただ俺をじっと見ていた。
 喧嘩をしている時は凄く怖かったけど、やっぱりこうして落ち着いて左之さんを見るとさっきの怖い思い出も武勇伝のように思えてくる。
 怖い程の強さが、俺にあったら……。
 おやすみなさいと言って別れるのが惜しくて黙っていたら、唐突に家の扉が開いた。
「うわ」
 びっくりして振り返ると、顔を赤くした親父が鬼のような形相で其処に立っていた。
「修、テメェ……ふらふらほっつき歩きやがって……」
 太い指で俺の髪を掴んだ親父はそのまま部屋に引きずり込もうとする。酒臭い息が掛かって俺は胸がむかついた。
「この糞息子が!」
「いたた」
 親父はそこで初めて左之さんに気付いたのか、彼に顔を向けてますます顔を顰めた。
「何だテメェは。うちの息子を巻き込むんじゃねぇよ。修、テメェ友達は選びやがれ」
 左之さんに暴言吐かれては黙っていられない。俺は腕を振り回して親父の手から逃れようとした。
「あ……あんたにそんな事……!」
「あんただぁ!? 父親に向かって何だテメェ、ほら家に入れ」
 しかし大人の力に敵う筈もなくますます髪を強く引っ張られ目に涙が滲んだ。
「痛い!」
「早く入れ。ぶっ殺してやるからな!」
 家に入れば今以上に痛い事をされると思えば身体が竦む。踏ん張ろうとする足が引きずられ、扉が閉まろうとした時、ガンと音がした。
「な……」
 親父が驚いて顔を上げたので俺もその視線を追って振り向くと、左之さんが扉を蹴って全開にしていた。
「それが親の態度かよ」
「何だぁテメェ、ガキが口挟むな!」
 俺の髪を放し怒鳴りながら左之さんと対峙した親父がハッとしたのが分かった。左之さんより若干親父の方が背が低かったからだ。
 途端に親父は目を泳がせ、俺の腕を掴み階段の方へ放り投げた。
「くそっ。テメェはもう帰ってくんな!」
「うわっ!」
 落ちる、と目を瞑った俺だったが左之さんの手が背を支えてくれた。荒々しく玄関の扉が閉まり、切れそうな階段の明かりだけになる。玄関から漏れる電気は凄く明るかったんだと今更ながらに思った。
 俺は閉まった暗い扉を情けない気持ちで見詰める。
 結局親父は、自分より弱い相手にしか吠えられないんだ。
 左之さんに腕を引かれて立ち直った俺は腕で自分の顔を覆った。
「すみません、左之さん……は、恥ずかしい……とこ、見せちゃって」
 左之さんの目の前で親父に怒られた事も、諍いを見られた事も、ろくな抵抗が出来なかった事も、親父が逃げるように家に引っ込んだ事も、全てが恥ずかしくて、俺は今すぐ消えたくなった。
「……俺んち来いよ」
「えっ!?」
 そんな俺に左之さんは否定するでもなく肯定するでもなく、それだけ言って階段を降りていった。
 聞き間違いじゃないのかと俺は呆然と立ちすくんでいたけど、階段を降りきった左之さんがちらりと俺を見たので、待たせる訳にはいかないと飛ぶように俺も階段を駆け下りた。
 
 道中俺達は無言で歩いた。左之さんはそもそも口数が多い方でもないし、俺はさっきの事もあって気まずいってのもあったし、左之さんの家に行けるという嬉しさと緊張で頭が真っ白になっていた。
 やがて左之さんは、小さな古いアパートの前で足を止めた。それからギシギシと鳴らして階段を上っていく。
 崩れるんじゃないかと不安になりながら俺もその階段を上った。
 階段から一部屋分奥にある扉の前で左之さんは立ち止まり、扉の横に置いてある汚い牛乳配達ケースを足で横にずらした。使われてなさそうなケースの下には何も飾りのついていない鍵があって、それを拾った左之さんは鍵を扉に差し込んで開ける。
「不用心じゃないですか?」
 ちょっと声を潜めてそう聞くと、「別にィ。盗られるモンもねぇし」と左之さんは呟くように返した。
 扉を開けて中に入った左之さんは脱いだ靴の中に鍵を落としそのまま奥へ入って電気を点ける。
 奥、と言っても玄関から続く廊下はほんの少ししかなく部屋がすぐに見えていた。
 畳の上に敷いてある布団に腰を下ろす左之さんに「お邪魔します」と一応声をかけて俺は靴を脱いで上がった。大丈夫、とは思うけれど一応玄関にも鍵をかけてみる。
 部屋に入ると畳は途中からフローリングになっていて、申し訳程度の流し台とガス台があった。短い廊下の途中にあった扉はトイレか風呂か、どっちかだろう。
 俺は布団の横に座ってキョロキョロと部屋を見回した。凄く狭い。
 俺の家も団地だし狭い方だとは思っていたけど、本当に一人用の家、という感じがする。
「左之さん此処に住んでるんですか……」
「おう。あいつ等には教えんなよ。たまられると鬱陶しいからな。あんま人入れるスペースもねぇし」
 左之さんはそう言ってごろりと布団に転がる。頭の下に手を組んで枕代わりにする左之さんを見下ろしながら俺は絶対に教えないと強く思った。
 そうしてまた部屋の中を見回す。
 部屋の隅っこに投げ出された感じのスポーツバッグが一つ、壁に黒い学ランが一着掛かっていた。それから戸のしまった押入れがあるけど、その戸は表面の紙が何か所か破れていた。
 小さなキッチンも使われている形跡はないし、そもそもガス台にコンロが無い。皿も見える範囲には無かった。
 左之さんは殆ど外にいるみたいだから、この部屋にもあまり帰っていないのかもしれない。
 しかし……。
 俺は閉じられた左之さんの瞼を見下ろした。
 左之さんの親は、どうしているのだろう。
 聞いてみたかったけど、迂闊に聞いて死んだとか言われたらなんて返して良いか分からなくなる。
「お前も来いよ」
 不意に左之さんが目を開けて俺を誘った。鳶色の瞳に俺が映ったのを見た瞬間、心臓が飛び出るかと思った。
 電気消してな、と言われて立ち上がった俺は、蛍光灯からぶら下がる紐を二度引っ張って小さな豆電球一つだけを残した。
 そうして恐る恐る左之さんの隣に寝転がる。
 布団は冷たくて、薄かった。
 ドキドキとしている俺とは対照的にのんびりと欠伸をした左之さんは、仰向けのまま手だけを上に伸ばして其処に転がっていた目覚まし時計を掴んで文字盤を見た。
「もうすぐ朝かぁ」
「左之さん、学校は?」
「んー、どうすっかねぇ。めんどくせぇ」
 左之さんは目覚まし時計を軽く放り、ころりと俺に背を向けるように寝返りを打った。
 やがてすうすうと寝息が聞こえてくる。
「左之さん……」
 小さく呟いてみたが、勿論返事は無い。
 左之さんの事を、俺は何も知らない。恐らくいつも一緒にいる先輩達も。
 でも少なくとも俺だけは、この家を知っているんだ。
 優越感を覚えながら左之さんの背中を見ていると、いつのまにか俺も眠ってしまった。
 
 
 
「なあこれ見て見て」
 いつもの通り、広場で溜まっている俺達のところに少し遅れてやってきた先輩が、中心に向かってボールペンを差し出した。
 パッケージに入っているボールペンで何の変哲もない、いかにも買ったばかりという風な新品のボールペンだった。
 意味が分からずきょとんとする俺達の顔を見回し、その先輩は得意げに笑ってみせた。
「隣駅のコンビニでさ、やってきたぜ」
「何を?」
「万引きだよ、万引き」
「マジかよお前!」
 ざわ、と皆の声が揺れる。
 俺はちらりと左之さんの顔を見上げてみた。相変わらず石に座っておでんを食べてる左之さんは、一切関心が無いように箸の先でこんにゃくを摘んでいる。
「ちょろいぜあっちのコンビニ。店員もあんまやる気ねぇし」
「えー、うわぁ」
 感嘆のような呆れたような声を上げる先輩達だが、窘める感じではなく皆どこか目がキラキラしていた。
「左之。左之もやりに行こうぜ」
 不意に先輩が左之さんに話を振るが、左之さんは其方を見もせずに一言だけ答えた。
「やらねぇ」
「ええー……」
 途端に落胆して先輩が肩を落とす。
「左之なら絶対上手くやると思うんだけど」
「思う。すげぇ上手そう!」
 一頻り盛り上がった先輩は再度左之さんを誘った。
「なぁ行こうぜ」
「お前らだけで行ってこいよ」
 答えたのは左之さんではなく、左之さんの隣にいる克さんだった。
 克さんは、少し前から俺達の集まりに参加している人だ。
 肩まで髪を伸ばしている克さんは、額にヘアバンド巻いていて少し目付きが悪い。酷く不愛想だけどどうやら左之さんと仲が良いらしい。似たような雰囲気だからだろうか。
 ある日突然、左之さんと一緒に此処に来た克さんは、皆と一緒に遊んでいるというよりは左之さんに付き合っているという感じがしていて、俺はその距離感が凄く羨ましかった。
 克さんに言われて少し不安げに視線を彷徨わせた先輩は、左之さんの前にしゃがんで彼の顔を覗いた。
「左之行かねぇの?」
「行かねー」
 ハッキリ言われれば先輩は諦めたようでかくんと項垂れる。
「じゃあ俺もここにいようかな。せっかく左之がいるし……」
 そんな先輩の肩を叩いてもう一人の先輩が俺を指差した。
「修にやらせれば?」
「ええ!?」
 急遽指名され、俺の心臓が強く跳ねた。
 万引き。
 あまりやりたい事とは思えなかった。左之さんがやらないなら尚更だ。
「よくあんじゃん。下っ端にやらせるみたいなさー」
 周囲が笑う中、いつ行けと促されるかドキドキしていた俺の目の前に、おでんの器が差し出された。汁がほんの少しだけ残っているが、具は全てなくなっている。
「修飲むのそれ?」
 先輩がそう言って周りがドッと笑う。
「飲みませんよ!」
 顔を赤くして否定するとますます笑われ、俺は少し頬を膨らましながら立ち上がった。
 左之さんの意図を汲んで広場の隅にあるゴミ箱まで走りおでんの器と箸を捨てる。
「舎弟使いが荒いよなー、左之」
 そんな事を言う先輩の声が小さく聞こえた。
 
 皆のところに俺が戻った頃には、もう既に別の話題に移っていた。
 俺は定位置である左之さんの隣に腰を下ろす。
「先輩がさ、バイク買ったんだよ」
「へー、かっこいい!」
 感嘆の声に俺は無言で同意した。
 ココに集まっている人達は殆どが高校生だ。唯一俺と同い年の宵太も今日はいない。
 ただでさえ大人に見える先輩達の、更に先輩などもう大人とハッキリ言ってしまっても良いのかもしれない。
 そんな事を考えると左之さんが立ち上がったので俺も慌てて立ち上がる。よく見ると他の人達も立ち上がってぞろぞろと何処かへ移動するようだ。
「何処行くんですか?」
 左之さんにそう聞いたが、答えたのは別の先輩だった。
「何だ、修。聞いてなかったのか? バイク見せてもらいに行くんだよ」
 バイク、の響きに胸が高鳴る。万引よりもずっと楽しそうだ。
 駅前から離れ、大きな通りの歩道橋を抜けて、数分歩いた頃にアパートが見えてきた。
 アパートの裏には空き地があり、そこに数人の男が集まっている。
 俺達に気付いた男は煙草を咥えたまま顔を上げてこっちを見た。
「おー、何だお前来たの。またぞろぞろ連れてきやがって」
 話の発端になった先輩がその人に駆け寄り、「バイク見せて」と頼むと彼等は快く頷いて俺達にバイクを見せてもらった。
「汚すなよ」
 そう言われて俺も恐る恐る左之さんの後ろからバイクを見る。外灯の下、濃い赤色のバイクは想像以上に大きくて本当にこんな物が運転出来るとは思えなかった。
「てか、お前ら誰」
 煙草を吸いながら恐らく大学生くらいの男が俺達を見る。俺達は口々に名前を言ったが、その人は笑っただけだった。
「多すぎて名前覚えらんねぇよ。中坊もいんのか。悪い事教えんなよぉ」
 体もいかついその人が凄むように言って先輩の首に腕をかけると、脇で締め始める。
「いってー、先輩、ギブギブ」
 楽しそうにじゃれ合うその傍で、左之さんはバイクの傍に寄ってしげしげとそれを見ていた。
 前髪をふわふわと固めた男の人が左之さんに近寄り、感心したように爪先から頭まで眺める。
「おー、お前背高いな。名前何てぇの?」
「……左之助」
「左之助かー」
 そんな会話を聞いて俺は初めて左之さんの名前を知った。そうか。「左之助」だから「左之」さんなのか。
 それを知れただけでも今日は凄く良い日に思える。
「身長いくつ?」
「ひゃくななじゅう……いくつかな。測ってねぇからわかんねぇ」
「じゃあ乗れるな。乗ってみろよ。おい、戌亥バイク乗せてみて良いだろ?」
「ああ!? 壊させんなよ!」
 先輩の首を絞めて遊んでいた彼は、「戌亥」という名前らしい。戌亥さんは少し焦ったようにそう言うも咎めなかったので発言者の男は左之さんを促した。
「跨るだけな」
 そう言われて左之さんが赤いバイクに跨ってみる。まるで雑誌みたいで俺はちょっと見惚れてしまった。
「こっちがアクセルで、こっちがブレーキで……地面から足離すなよ」
 男が左之さんの手を触りながらハンドルを持たせる。戌亥さんもこっちに戻ってきて「様になってんじゃん」と囃し立てた。
 バイクに触れたり左之さんに触れたりする手を見ていると、俺はいつのまにか自分の眉間に皺が寄っている事に気付いた。何だか額が疲れる。
 ごしごしと指でそこを擦っていると、バイクの傍に克さんがしゃがんでいる事に気付いた。克さんもバイクには興味津々のようだった。
「左之助、お前バイクの免許取れば」
 何気なくそう言った克さんの後頭部を俺は見た。少し長めの黒髪が肩に流れている。
 『左之助』と呼ぶ程の仲なのだな、と思うと俺はまた羨ましくなってしまった。
 
「また来いよー」
 上機嫌の男達に見送られ、俺達はその場を後にした。
 左之さんが「帰る」と言ったので、それなら俺もと皆後に続いてしまったからだ。
 俺は左之さんの後ろを歩きながら気が気でなかった。
 左之さんは随分バイクを気に入っていたみたいだし、あの戌亥さんとか言う人達も恐らく左之さんを気に入ってしまったのだろう。
 もしかしたらこれから左之さんはあの広場やゲーセンに来ず、こっちの方に来てしまうかもしれない。そうするとバイクに乗ってみたり後ろに乗せてもらったりとますます仲を深めていくのだろう。
 かといって俺はこっちに一人で来てあの人達に見付かるのは怖い。
 どうしたものか、と悩んでいると先輩が左之さんの隣に並んで左之さんの肩をパンと軽く叩いた。
「左之、バイク乗るの?」
「んー、どうすっかなぁ。バイクより走る方が好きだしな」
 質問をした先輩に俺は心の中で最大級の感謝をする。そして左之さんの答えには小さくガッツポーズを取った。ところが。
「あの先輩に後ろ乗せてもらえば」
 克さんが事も無げにそう言うので、俺は危うく克さんの背中にタックルをかますところだった。余計な事を言わないで欲しい。
「いやでもさ、先輩もすげー忙しいし」
 慌てたようにそう言ったのは、そもそもバイクを見に行こうと言った先輩である。
「暇そうだったけど……」
 呟く克さんと左之さんの間に割り込むように進んだ先輩は、「とにかくもう行かない方が良い」と言って口を尖らせた。
 他の先輩達も同意するようにうんうんと頷いている。
 やっぱり皆同じ気持ちだったんだな、と思って俺はホッと息を吐いた。俺だけがおかしい訳じゃなかった。克さんはどう思っているのか分からないけど。
「じゃあ克、おめぇが免許取れよ」
「はあ? 自分で取れ」
 左之さんと軽口をかわせる克さんが相変わらず羨ましかったのだけど、結局そのやり取りが楽しくて俺は笑ってしまった。
 
 
 
 夏休みの終わりに、俺は酷い目に遭った。
 左之さんの傍にいることで、いつのまにか俺は相当気が大きくなっていたみたいだ。
 左之さんの生き方に憧れて、左之さんみたいになりたくて、少しでも左之さんに近付きたかった。
 
 あの日、歩道橋を渡ろうとしていた俺は、学生っぽい男が数人たむろっているのを見掛けた。最近駅前でもちらほら見掛ける柄の悪い奴等だった。
 俺の少し前をスーツ着た女の人が歩いていて、大丈夫かなって見ていたんだけど案の定そいつ等に絡まれていた。
 今までの俺だったら怖くて見ないフリをして、身を縮こまらせて自分には絡んできませんようにって祈りながら通り過ぎていただろうに、その日はふと「左之さんだったらそうしないよなあ」と思ったんだ。
 だから、「やめろよ」ってそいつらに声を掛けた。
 でも左之さんみたいに上手く振る舞えなくて、声が震えてしまったように思える。
 俺が左之さんの真似をちょっとしても、左之さんみたいに出来る訳じゃないのに。そんな事は分かっていた筈なのに、その時は今までのようには出来なかった。
 結局俺はそいつ等に殴られて、蹴られて、殺されそうになってしまった。
 左之さんが助けにきてくれて、俺は先輩達に連れられてその場を離れた。後から聞いた話だと、左之さん含めその場で喧嘩していた奴等は全員警察に捕まってしまったらしい。
 俺も病院に行くと警察に捕まるかもしれないと先輩達に言われ、暫くは家に引きこもってた。幸いにして何処か折れているという事もなく、打撲と擦り傷だけだったみたいだ。親父も俺の怪我を見てそれ以上殴る気がしなかったのか何だか放置してくれたので、それも運が良かったように思える。
 数週間後に恐る恐る外出してみたけど、広場でもゲーセンでも左之さんを見掛けなくなってしまった。
 学校をサボって昼間に駅周辺をうろついてもみたけど、やっぱり会えなかった。
 ゲーセンにたまっている先輩達に左之さんの事を聞いてみると、先輩達もここのところ会っていないと言うし、俺はますます心配になってしまった。
 俺はコンビニで手土産を買い、勇気を出して左之さんのアパートに行ってみた。
 破裂しそうな程ドキドキする心臓を堪えながら左之さんの部屋のチャイムを鳴らすと、箸を咥えた左之さんが扉を開けてくれた。
 覚悟をしていたのに簡単に会えた事で拍子抜けしてしまって、思わずその場に座り込んだ俺を見下ろし左之さんはごくごく普通に「どうした? 上がれよ」って言ってくれた。
 
 何だか凄く明るく感じる部屋に上がり、小さなテーブルを左之さんと囲んだ。
 左之さんは恐らく自分で作ったのだろうご飯を食べていて、俺は差し入れのおやつを自分で食べた。
 キッチンを見るとガスコンロが置いてあって、流し台も少し使った形跡がある。
「最近左之さんに会えないからって、皆まいってますよ」
 そう言うと左之さんは「何だそれ」って笑った。
 あまりに軽く笑うものだから俺は目がチカチカして咄嗟に両目を擦ってしまった。
 左之さんって、こんなに明るい人だったっけ。
 戸惑う俺を後目に左之さんは焼き魚をつつく。
「昼間は学校行ってっし、夕方からはバイトだからなぁ」
「バイトしてるんですか!?」
 驚いて声を上げる俺に、左之さんは「おう」とまた笑って答える。
「何処で!? 教えてください」
「嫌でぇ」
 テーブルに手をついて身を乗り出すと、ぷいっとそっぽを向かれてしまった。
「何でですか!?」
「だってお前来るだろ」
「バイトしてる左之さん見たいです」
「ばーか」
 軽口を叩きながらまた左之さんが笑って、俺は頬が熱くなってしまう。
 落ち着こうと座り直してポテトチップスを摘み、それを噛み砕いた。
「左之さん……」
「んー?」
「あの、ちゃんとお礼言ってなかったですよね」
 塩っ辛いスナックを飲み込み、正座した俺は左之さんに頭を下げた。
 色々と衝撃的過ぎて前後してしまったけれど、そもそもこれが言いたくて俺は左之さんを探していたのだ。
 俺の軽率な行動で、左之さんにも怪我をさせてしまったし、俺一人だけ警察から逃げてしまった。
 それなのに、左之さんはこうして何も気にしていないような感じで俺に接してくれる。
「すみませんでした。有難うございます」
 心を籠めて重く謝罪とお礼をすると、左之さんは「おう、もう無茶すんなよ」と、軽い雰囲気で返してご飯を掻き込んだ。
「……俺、左之さんの高校行きたいなぁ」
 俯いて膝に置いた手を見詰めていたら、そんな言葉がぽろりと零れてしまった。
「何で」
「だって、左之さんに会えるし」
 自然にそう答えてしまい、その後左之さんが無言になったので俺は慌てて顔を上げた。変な意味ではない、と付け加えようとしたところで、ご飯を飲み込んだらしい左之さんが先に口を開く。
「お前勉強できんの」
「左之さん教えてくださいよ!」
「教えれる訳ねぇだろ」
「じゃあ高校教えてください!」
「どういう理屈だよ」
 やはりいつもの通り通っている高校は教えてくれない。それでも、来るなとは言わない。
 そんな左之さんの態度に希望を感じて俺はちらりと壁に視線を遣った。
 其処には、前に来た時と同じように黒い学ランがかけてある。
 襟に付けてある校章とボタンの模様を覚えようとそれをじっと見続けていたが、親父の事を思い出して俺は目を伏せた。
「……でも」
「ん?」
「親父が高校行かせてくれるとは思えないし、やっぱ一緒の高校には行けないかもっすね」
 中学だって、義務教育だからと行かせてくれるだけなのだ。
 今の状態で親父が高校のお金を出してくれるとは到底思えなかった。恐らくは中学を出たら家を出るように言われるか、働いて金を寄越せと言われるだろう。
 俺は溜息を吐いて空になった菓子類を袋に詰め、まだ食べていないものは左之さん用として横に分けた。
 
 部屋の外まで見送りに来てくれた左之さんに「また来て良いですか」と聞くと、「おう」と答えた左之さんが柔らかく笑った。
 帰る道々、左之さんの事を考える。
 彼に何かがあったのは確実なのだろう。
 どうして急に学校に行き始めたのか、どうしてバイトをしているのか、何処でバイトをしているのか。
 知りたくて仕方がなかったけれど、知る術は無い。
 俺は何故だか無性に寂しくなって夜空を見上げた。
 どうしてだろうか。
 左之さんは以前よりずっと親しみ易くなっているのに、俺からは遠く離れてしまったような気がしていた。
 
 
 
 それから左之さんは、またゲーセンに顔を出してくれるようになった。
 本当に時々、しかも暗くなってからだけだけど。それにすぐ帰ってしまうのだけれど、それでも皆凄く喜んでいた。
 今までも左之さんが来るとその場が凄く楽しくなっていたのだけど、最近は左之さんが来ただけでその場がパッと明るくなったようになっていた。
 左之さんが座るゲーセンの椅子の端っこに座らせてもらいながら、俺が言ったから来てくれたのかな、なんて図々しい事を考えては一人でにやけていた。
 
 冬のある日の事。
 その日、何となく思い立って左之さんの家に行った俺は唖然とした。
 左之さんのアパートが黒くなって崩れていたからだ。
 遠目に見た直後走って近付き、立ち入り禁止のテープが張ってあるその手前で「えええええ!?」と混乱極まる絶叫をしたら、ちょうど近くにいた近所の人が俺に教えてくれた。
 昨夜、このアパートから出火したらしい。アパートは半焼。左之さんの部屋の扉もその周りも黒く塗りつぶされていた。
 暫くその場で呆然としていたけど、ハッと我に返って意味もなく辺りを見回した。
 左之さんは一体どうなってしまったのだろう。
 親切に教えてくれたおばさんに、住人はどうしたのかと聞いてみると、幸いにして死者も怪我人も報告されていないという事だった。新聞にも載ったらしいけど、生憎俺の家は新聞なんて取ってないし、取っていたとしても読まなかっただろう。
 俺は急いで踵を返していつものゲーセンに走り込んだけど、其処に左之さんの姿は無かった。既に数人で遊んでいた仲間に聞いても「今日はまだ来てない」と言われるばかりだ。
 切羽詰まった様子の俺に異変を感じたのか、理由を聞かれたけど俺は答えず左之さんのアパートまで取って返した。
 辺りがとっぷりと暗くなるまで焼けたアパートの前で待っていたけど、左之さんは帰って来なかった。
 警察らしき人影が見回りに来た事に気付いて、見つかる前に家へと戻った俺は、翌日朝から駅に行った。
 左之さんの高校は駅を経由して行くところではないけれど、目的は別にある。
 街路樹の根本に蹲ってひたすら駅の入り口を見張っていると、自転車に跨って長髪を靡かせた高校生が其処を横切っていった。
 俺は急いで立ち上がり後を追うと、自転車は駅の傍にある駐輪場へと姿を消していく。足踏みをしながら駐輪場の入り口で待っていた俺は、出てきた男の腕を掴んだ。
「克さん!」
「うお」
 男――克さんは唐突に現れた俺に驚いて目を見開きながらも掛けていたヘッドフォンを外して俺に向き直った。
「あ、ああ……誰かと思ったら、お前」
「左之さんの事知りませんか?」
 皆まで言う前に食い気味で俺は尋ねた。
 以前、一度だけ駅の近くで克さんと左之さんを見掛けた事があったのだ。克さんは数駅離れたところにある私立の制服を着ていたから、きっと駅を利用するのだろうと踏んでいたけど、予想通り捕まえる事が出来て俺は少し興奮していた。
 左之さんの高校で待っていた方が確実かもしれなかったけど、学校周りだと補導されてしまう可能性があったから。
「左之さんの、家が! 燃えてて!」
 はぁはぁと息を荒げながら迫る俺に、少し引いて背を反らせていた克さんは、それを聞いて納得いったように瞬いた。
「ああ、何だ。お前左之助の家知ってたのか」
 ビンゴだ。
 嬉しさと共に胸が痛んだ。
 恐らく、この人は。この人だけは、俺と同じように左之さんの家を教えてもらっていたのだろう。もしも左之さんが頼るとしたら、俺の知っている限りでは克さんしかいないだろうという確信にも似た予感があった。
「左之助なら俺の家にいるぜ」
「え……」
「ま、燃えたんだし仕方ないよな」
 事も無げに言う克さんに、複雑な想いが過ぎって胸が焼ける。
 もしも俺の家が、ちゃんとした家だったら、左之さんも俺の家に来てくれただろうか……。
「お前、……修、スマホ持ってないのか?」
 恐らく俺の名前を思い出そうとして僅かに間を空けた克さんが、そう訊いてくる。
「あ、はい……」
「ふーん、なるほどな」
 それだけ言って腕時計を見た克さんは、また耳にヘッドフォンを掛けた。
「悪いけど俺学校だから」
「あの……」
「お前も行けよ、学校」
 有無を言わせず片手を揺らした克さんは、俺に背を向けて駅の改札を潜っていってしまった。
 人の流れに紛れていく克さんの背を見送り、俺は駐輪場に戻ってその入口に座り込んだ。
 自転車を停めに来る人や、取りに来る人がじろじろと見てきたけど、それくらいで移動する訳にはいかない。
 駐輪場の管理人が声を掛けてきた時は駅員を呼ばれると思って一旦その場を離れたけど、俺はまた戻ってひたすら克さんが帰ってくるのを待った。
 早い夕日が沈み、寒さに震えながら手に息を吐きかけていると、街灯に照らされて歩いてくる克さんが見えて俺は立ち上がった。
「克さん!」
 制服のズボンのポケットに手を突っ込んで歩いていた克さんは、その場で立ち止まりまじまじと俺を見てきた。
「お前……まさかずっと其処に居たのか?」
「だって!」
「忠犬かよ」
 呆れた調子で呟いた克さんは、邪魔という風に俺を手で追っ払って駐輪場へと入っていった。暫くして自転車を押して出てきた克さんは俺の前でそれに跨り、くいと顎を動かしてみせる。
「仕方ないな……乗れ」
「はい!」
 バーに足をかけて自転車の後ろに乗り上がり、克さんの肩に手を置いて立った状態で乗る。克さんが自転車を漕ぐと、冷たい風が顔や手に当たって寒いというよりは痛かった。
 それでも、左之さんに会える、無事を確かめられる、と思うとそんな痛みなんて吹き飛んでいくようだった。
 駅から暫く走ると、やがて高級住宅街に入った。大きな屋敷が並ぶ中を克さんは走り、やがて灰色をした屋根の家でブレーキを引いた。
 俺が飛び下りると克さんも自転車を降り、家の前にある門を開けてその中に入っていく。
 白と黒の綺麗なコントラストで作られている壁を圧倒されて眺めていると、克さんが「門閉めるから早く入れ」と声を掛けてきた。
 急いで門の内側へと入り、アーチ状の壁で囲まれている玄関先に立って克さんを待つ。家の脇に自転車を停めた克さんは俺の傍に来て慣れてる仕草で玄関の扉を開いた。
 チョコレートみたいな扉が開いて、中から一気に温かな光が溢れ出す。
 怖々と中を覗けば、広い玄関の右側に階段が、中央には奥へ続く廊下と、左側にはすりガラスがはまったドアがあった。
「ただいま」
「あ、お、お邪魔、します」
 克さんに続いて急いで挨拶すると、奥から「はーい」と女の人の声がしてパタパタと軽い足音が近付いてきた。
 オレンジ色の柔らかい光が照らす廊下にその人が姿を見せる。ウェーブのかかった短い髪をした優し気な女の人は、微かにハンバーグのような香りを纏っていた。彼女がエプロンをつけているから余計にそう錯覚してしまったのかもしれないけれど。
「お友達? こんにちは」
「……こんにちは」
 久々にするやり取りに上がってしまった俺が不器用に頭を下げている間に、克さんは靴を脱いで階段を上りかけていた。
「左之助まだ帰ってない?」
「帰ってないわよ」
「ふーん。修、こっち」
「はっ、はい」
 俺もわたわたと靴を脱いで端に揃え、女の人にまたお辞儀をしてから克さんの後ろをついていった。踊り場で折り返した階段を上り切り、正面にある扉を開けた克さんは、室内に入り机に鞄を置いた。
「ま、ちょっと待ってろよ」
 俺を振り返らずそう言った克さんはコートを壁にかけ、鞄の中から雑誌を取り出してベッドに座る。ヘッドフォンを耳にかけて寛いだ様子で雑誌を読み始めてしまう克さんに、俺はどうしたら良いか分からず、コートも脱がずに部屋の隅へ腰を下ろした。
 部屋の中は暖房が効いているのか温かくて、冷えた身体がじわじわと癒されていく感覚がする。
 パラパラと克さんが雑誌を捲る音だけが時折響く室内で、気まずい時間を数十分程過ごしたところでドアの向こうで小さく声が聞こえた。声の主は何か言った後、ドタドタと騒々しく階段を上ってきて勢い良く部屋の扉を開けた。
「おい、克。あのさ」
 ひょこりと顔を出したのは左之さんだった。左之さんは、克さんに何事か言い掛けたところで俺に気付き、驚いて目をまん丸にしていた。夜の猫みたいで可愛い、と一瞬呑気な思考が過ぎる。
「えっ? 修? え!?」
 ドアに片手を掛けながら俺を指差した左之さんが口をぱくぱくとさせていると、克さんがヘッドフォンを外して顔を上げた。
「お前の事探してたぞ。朝から駅で忠犬みたいに待ってたから連れてきた」
「左之さん……」
 漸く声が出た俺は立ち上がって左之さんをじっくりと見た。学ランの上にコートを羽織った左之さんは、何処にも怪我はなく元気そうだ。
「無事だったんですね」
「え? あ、ああ……」
 心底安堵する俺に未だ戸惑ったようにしていた左之さんは、唐突にパチンと指を鳴らした。
「そっか、おめぇ、携帯!」
「左之さん! 心配したんですよ!」
 意図しているところは分かったが、俺はとにもかくにも左之さんに飛びついた。全ての不安は吹き飛んだのだからこれくらいしても罰はあたらないと思う。
 微かに何かの香りがして一瞬動きが止まった俺の髪を左之さんがぽんと撫でてくれる。
 何だっけ、と考えてすぐに思い出した。珈琲と、煙草の匂いだ。
 左之さん煙草吸わないのになぁとぐるぐる思考を巡らせていたけど、漸く左之さんがバイトしていると言っていた事を思い出した。何処か喫茶店で働いているのかもしれない。
 それなら俺にも行けない事もない。行きたいなぁ、と未だ諦めきれない希望を持ちながら頭を擦り寄せる俺の肩を押して引き剥がした左之さんは、鞄をベッドに放り投げて克さんの前に胡坐を掻いた。
「でさ、克。落ち着き先見つかりそうだぜ」
「ん、何だ。出てくのか」
「まだわかんねぇけど、多分」
「左之さん!」
 せっかく見付けたというのにまた何処へ行ってしまうのかと、急いで隣に座った俺に左之さんが腕を回し、ヘッドロックをかけながら髪をぐしゃぐしゃと掻き回してきた。
「うああああ」
「お前早く携帯買えよ」
「無理っすよぉ……」
 何とか腕から抜け出して酷い状態になった髪を撫で付ける。左之さんを見ると、もう俺には興味をなくしたようで床に手をつきながら天井を見上げ「腹減ったなぁ」なんて呟いていた。
 まあ良いか、と俺は溜息をついた。
 左之さんの無事をこの目で確かめられたのだから。左之さんが元気であれば、俺はそれで良い。
 
 
 
 それから左之さんがゲーセンや駅前の広場に来る頻度は極端に落ちた。
 今まで通り暗くなってからとか休日に少し顔を出す事はあったけど、夜には夕飯だからと言って絶対帰るようになってしまった。
 勿論左之さんがいないから克さんも来る訳もなく、平日の昼間に左之さんに会える確率が0になってしまった事で俺は行く意味を見失った。いつのまにか、左之さんに会う事が目的になっていたのだと思う。
 暇になった俺は仕方なく学校に行ってみた。クラスメイトや先生とはぎこちなかったけど、とりあえず綺麗なままの教科書を開いて勉強に精を出す。
 その理由は「暇だから」に加えてもう一つあった。
 それは、左之さんと同じ高校に行きたいから。
 左之さんの高校は凄く偏差値が高い、という訳ではないようだけど、ほとんど授業を受けていなかった俺が入れるものでもない。学校に行き始めてから最初に受けたテストの結果を見て、俺は少し震えた。
 とにかく頑張ってみるしかないだろう。
 何としても左之さんの高校に行きたかった。今の状況だと、左之さんと自然消滅してしまいそうだったから。
 左之さんは今真面目に高校へ通っているのだから、同じ高校に行けば必ず同じ校内で会える。それだけを目標に俺は必死に教科書へ齧り付いた。
 
 そんな風に勤勉に過ごしていた中三の秋、左之さんが俺の団地の前に立っていた。
 あまりに会いた過ぎて幻を見たのかと目を擦ったけど、左之さんが俺に手を振ってくれたので幻でも良いと思って俺は駆け寄った。
「左之さん!」
「よっ」
 朗らかに左之さんが笑い掛けてくれる。
 左之さんの家が火事になってから大体一年くらいが経過していた。もう最近では左之さんに会えるのは二ヶ月に一度あるかないかになっていた。
 久しぶりに見た左之さんは、何だか凄く煌めいていて眩しかった。
「会えて良かったぜ。流石にそろそろさみぃって思ってたんだ」
 そう言っておどけるように肩を竦めた左之さんの少し伸びた前髪が揺れる。不意に左之さんの耳から項にかけて何かがふわりと香った気がして俺はどぎまぎとしながら顔を逸らした。
「ん?」
「あ、いえ……その、どうしたんですか」
 俺の動きを不審に思った様子の左之さんに取り繕おうと急いで問うと、左之さんが寒そうにジャンパーのポケットへ手を入れた。
 家に上がってもらいたいが、父親がいるかどうか分からない今は誘いにくい。言ってくれれば俺が左之さんの家に行ったのに、と思って俺は少し気が沈んだ。
 左之さんが今何処で暮らしているのか、俺は知らない。改めて聞くのも何だか気まずかった。聞いてみて、ハッキリ教えないと言われたら心が折れそうだったからだ。
「お前今もう中三だったろ、確か」
「え? はい。そうですけど」
 予想外の問い掛けをされて顔を上げると、左之さんが頷いてみせる。
「進路考えてたらお前の事思い出してよ」
「もっと頻繁に思い出してくださいよー」
 軽く抗議すると左之さんは、はははと明るく笑った。
「親父さん、反対してんの?」
 左之さんが言ってるのは高校の事かとピンと来た。左之さんの家で話した事を覚えていてくれたのだ。
 小さな事が嬉しくて潤みそうになる目を必死で瞬き俺は頭を掻いた。
「反対っていうか……中学出たら働けってそればっかで。もうすぐ三者面談なのに、来てくれるかどうかも……」
「ふーん。ま、頑張れや」
 ぽんと俺の肩を叩いて左之さんが歩いていく。
「左之さん!」
 呼び掛けるも振り返らず手を振った左之さんはそのまま帰っていってしまった。
 まだ夕飯の時刻でもないのにとっぷりと暮れて暗くなった道に立ち、俺は左之さんの背中が見えなくなるまでひたすら見送った。
 左之さん、凄く変わった。
 俺は改めてそう思う。
 左之さんに触れられた肩を撫で、俺は目を閉じた。
 最初に会った左之さんも格好良くて大好きだったのだけれど、今の左之さんも好きだ。
 ただ、左之さんがそうなったのは全く俺に関係ないし、これからも俺は理由を知る事は出来ないのかもしれないと思うとちくりと胸が痛んだ。
 
 
 左之さんと会った数日後、流し台で皿を洗っていると不意に親父が話し掛けてきた。
「お前高校行きたいのか」
 驚いて後ろを振り返ると、テレビから流れる野球中継を見ながら寝そべっている親父がビールを飲んでいた。
「行きたい、けど……」
 とりあえず答えてはみたものの、小さい声しか出なかった。聞き間違いの可能性もあるからだ。
 親父は何も言わずビールを飲み続けていたので、やっぱり聞き間違いかと思って向き直ろうとした瞬間、親父が言葉を続けた。
「奨学金とか何とかあんだろ。それ調べてこい」
「えっ、行って良いの?」
 俺は今度こそ本当にびっくりし過ぎて、恐らく目がまん丸になっていたと思う。
 皺の寄った親父のシャツをまじまじと見つめ、俺は熱くなる息を深く呼吸する事で何とか抑えた。
 一体どうしたというのだろう。今日の仕事で頭でも打ってきたのだろうか。
 俺は前に向き直り皿洗いを再開させた。
 皿に纏わりついた泡を綺麗に落としている内に、じわじわと喜びが胸に上がってくる。
 やった! 高校に行けるんだ! 左之さんと一緒の高校に……!
 そこまで考えて手を止めた。
 左之さんの顔が浮かんだからだ。
 もう一度背後を振り返ったけど、親父はさっきと何も変わらない体勢のままビールを飲み続けていた。
 もしかして、左之さんが何かしてくれたのだろうか。
 そう考えて首を振る。
 いや、まさかな。
 以前左之さんに会った時気迫負けしていた親父だけれど、誰かに言われたからといってそうそう考えを変えるとも思えない。
 案外気の弱いタチみたいであるから酷く脅されれば従ったりしてしまうかもしれないけど、左之さんが俺のためにそんな事をするとも思えないし、今日仕事から帰ってきた時だってビクビクしているような様子もなければ殴られた仕草もない。
 不思議に思いながらも俺は洗った皿を洗い籠に並べて、代わりに汚れたフライパンを取った。
 こしこしと汚れをスポンジで擦っている内に、不思議よりも嬉しさがやはり勝ってしまって思わず鼻歌が洩れてしまった。
 後ろで小さく「うるせぇよ」と親父の声が聞こえたけれど、何故だかその声に苛ついた響きは無かった。




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